「聞く」と「見る」のあいだに 〜映画『空に聞く』を自主上映という仮設の映画館で上映する

四年前に映画『息の跡』の自主上映会を行った翌日、愛知トリエンナーレで上映された『空に聞く』を観ました。それ以来、名古屋、大阪、京都など、上映されるところに何度も足を運ぶようになりました。取り憑かれたように、繰り返し観てしまう作品です。タイトルは『空に聞く』ですが、映画から聞かれているかのように感じます。それは全く居心地が悪いのではなく、逆に、聞かれていることで、私は安心して、そこにいられると感じます。この映画を観ていていいのだと、その都度思います。しかし、ただ観ているだけでいいのか、とも思って、何度か東北に向かおうとしました。けれど、それは実現しませんでした。それよりもまず、この作品を上映する方が先だと思いました。たくさんの人に、これまで何度もお薦めしてきましたけれど、それだけでは足りませんでした。

この作品は、東日本大震災の被災体験や、復興の体験をしている人たちを撮影した映画ではありますが、そういう風に一口に言えない、テーマに還元されない何かが、とてつもなく豊穣なものとして伝わってきます。わたしはそれが何なのか何度観ても、明確に分かったとは言えません。しかし、引き込まれる。そして、安心するし、懐かしい。だから、多くの人と一緒に観たい、そして、出来ることなら、この映画を観たという体験を通して、その体験の後に、皆で、その時間を過ごしたいと思います。この映画は、集まって観られることによって、映画になるような映画だと思います。配信やTVで観ても、この「映画」という体験は生まれないでしょう。そういう確信があります。映画には、物語のあるものも、ないものもありますけれど、何より、映っているもの、録音されているもの、映画の映像や音そのものに、人が集って触れるということが最大の醍醐味だと思っています。私は、よく分からないけれど、毎回、この映画にびっくりします。まずは、その驚きがあるから、自分で上映したいという、止むに止まれぬ欲求が生まれてくるのです。

『空に聞く』は、陸前高田の災害FMが、作品の主な舞台となっています。そのパーソナリティの阿部裕美さんという方が主人公です。その阿部さんの語り口、そして、話の聞き方が、あまりにも魅力的で、どの番組も素敵で、本当に、自分が住んでいる町にも、こんなラジオがあったらいいなと思います。登場する人々の関係性にも惹かれます。しかし、ラジオというのは、言わば、音しか聞こえないものです。今回の上映は、日本語字幕と、日本語イヤフォン音声ガイド付きの上映になります。これはこの作品の現状としては実はまだかなり特別な上映で、東京のユニバーサル映画館『シネマ・チュプキ・タバタ』が独自に制作した音声ガイドをお借りして行います。『シネマ・チュプキ・タバタ』以外では上映されていないものです。本来、どんな映画にも字幕や音声ガイドがついていて欲しいですが、低予算の作品では、そうも行かないことがあります。何故そういう上映をしたいかというと、目の見えない、見えにくい方や、耳の聞こえない、聞こえにくい方にも、触れてほしいからです。ラジオを背景にして、そのパーソナリティを主人公にしているので、まず、音声が非常に魅力的だということがあります。そして、そればかりではなく、映像表現が素晴らしく、これに、私はいちいちびっくりするし、心揺さぶられます。この映画、見えないはずのラジオが映っている、とも感じるのです。小森監督自身がこのように書いておられます。

「カメラには写すことのできないものたちが、人々の懐かしみながら語る声や、それを聞く阿部さんの表情から、見えないけれど伝わってくるのです。それを映像で表現したいと思いました。」小森はるか「Director's statement」より

写すことのできないものたち、とは何でしょうか。私は、多分、この、写すもののできないものたち、に魅了されているのです。もちろん、その映像や音を通じてです。ラジオが映っているとも書きましたが、それ以上に、ここには、カメラやマイクを向けられた人たちの、人たち同士や、あるいは、カメラやマイクを向けている人との間の、関係とか距離とか、そういう微細なものが現れているように思います。そして、そこから、もうそこにはいない人のことも現れてきます。簡単に言葉に出来るものではないですが、映画を体験する上での最もスリリングな何かだと思います。映画は恐ろしいもので、様々な関係を写しとってしまいます。そこで、観るものは、ドキドキしながら、それを追体験することになります。
人にカメラやマイクを向けることは、とても暴力的なことでもあると思います。今、映画や芸能の世界で起こっている虐待などの問題も、カメラやマイクの暴力性と地続きだと思っています。本作の小森監督は、そのことにとても敏感で、慎重に丁寧に最終的に映画に残す映像や音を選んでおられるように思います。そんな作品が耳の聞こえない方、聞こえにくい方、目の見えない方、見えにくい方に、どのように感じられるのか、とても知りたいのです。

震災を体験した人ばかりでなく、最近では、今まさに、戦争に巻き込まれている人や、あるいは、身近にも、たくさんの辛い体験や、苦しい思いを抱えた人がおります。そういう人と、どう接したらいいか戸惑うことがあると思います。そういう戸惑いと似たような、何とも言えない手触りが、この映画にはあるように思います。
自分には分かり得ない体験、他人の体験というのは、確かに自分には分かり得ないのですけれど、その分かり得なさを、映画として体験出来る部分がこの映画にはあるのではないかと思うのです。分かり得なさに対する敬意のような何かです。
そうした、他者の分かり得なさを、更に、監督した小森さんと、音声ガイドを作られた平塚さんと、共に、座談会で話し合うことで深めたいのです。それは、映画を通じて他者と出会いたいと言い換えてもいいかもしれません。

このところ、ミニシアターと呼ばれる小規模の映画作品を上映する映画館が、相次いで閉館して行っています。だから映画は家で観るものになって行くのかというと、そうではないと思います。自主上映会など、仮設の映画館を作って上映して行って、初めてそこに映画が生まれるのではないでしょうか。

私は、普段から、色々な人が、いっとき、役割や地位や立場や特性、属性などから離れて、ただ一人の人として集うという活動を行っています。何より「集う」ということが中心的な活動です。集うというのは、それぞれの眼差し、聞く耳が交錯するということだと思っています。そういう場所にこそ映画があったらいいなと思います。映画はむしろ「集う」ことによって映画になっていたのではないでしょうか。だからこそ、集う場に、映画を置いてみたいのです。

『空に聞く』の分からなさと魅力とは、ある意味で、本質的な他者の分からなさと魅力に通じるのかもしれません。「聞く」と「見る」のあいだに奇跡的に成立している作品であり、そして、だからこそ、人と人を出会わせる力を持っているのではないでしょうか。人が集って観るのに、これほど相応しい映画はないと思います。

西脇秀典(間の会)

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